幸せの権利

普段接する人のほとんどがクライアントさんという生活が長い。しかしそれにまったく不自由さを感じていない。セッションで人と触れ合いつながることはそれくらい楽しくすばらしい体験だと感じている。

 

車を運転しないので、犬の散歩以上の外出をしない。今年は唯一歯医者さんに通ったがほどんどが夫の送り迎えつきで、どうしても時間が合わない時だけバスに乗った。

 

それ以外は全部夫と一緒だ。買い物も普段は夫がしてきてくれる。時間が空くと私を連れ出すために一緒に直売所なんかに出かける。あとは2人と1匹(犬)の時間をかけた散歩。普段の義務的な散歩と違い、1匹も心から楽しそうにしている。どう見ても、楽しさを表現して見せているように見える。そんな生活を私はこの上ない贅沢だと思う。

 

今年は結婚10周年だった。その時に私が夫に言ったのは「あなたとこんなにもたくさん一緒に過ごせて、とっても満足」だということだ。夫はなんと言ってくるかと思ったら「そんなふうに思ってもらえるなんてしあわせだね」と答えた。そんなふうに言ってもらえることこそしあわせだよまったく。

 

私にとってこの世で確かなものとは夫との間に築いたものだと思っている。これは結婚当初から確信したことで、そこからずっと変わらない。築いたというのはものとかかたちではなく、その関係性、エネルギー、そして愛だと思う。

 

思えば長い間、生きることそのものにずっと不安を抱えていた。多くの人が、本当はどんな心持ちで普段を過ごしているのだろうか。それは今でもよくわからない。あの漠然とした絶望に似たおそれや焦りや葛藤、そして怒り。静かに悲しみを感じる暇もないほどの怒涛の日々。元気?と声をかけられればいつも「疲れてる」としか答えられなかった。生きることの意味が生存競争だったのだ。

 

そんな疲れを感じている人は多いのだろうか。私は今やクライアントさんと多くを分かち合える。痛みを共有し、悲しみに共感し、そこから光をみつけ、ひいては自らが光となっていく道を何度も何度も往復する。これはすばらしいとしか言いようのない体験だ。そしてここで体験することの学びをさらにすべて夫と共有して生きている。

 

今となっては、こういう生き方以上に、こういう生き方以外に、私を満たす生き方はなかったような気がする。何を得たとしても、きっと今みつけたことをみつけない限り、私は欠如を抱えていただろう。

 

私を満たすものとは、私が得たものではない。今の生活が私を満たしているのではない。私が内側にみつけたものだけが私を満たしている。内側にみつけたものを分かち合えることだけが、私に喜びを与える。

 

内側にみつけたものが、世界を彩りそれが私に世界を与え続ける。

 

「すべては内側にあります」。ですからもし、あなたが何かを探しているのであれば、内側を探してみてください。それはみつかります。

もしそのヒントやコツやサポートを求めておいでなら、おともさせてください。

 

内側を探すことは手探りすぎて難しいのです。本当に苦労して苦心して、私も探し続けました。その長い道の途中に私を支えたのは、いつか幸せになれるんだという思いではなくて、いつかこのことが同じ思いの人の役に立つかもしれない、ということでした。みんながこんなにまで辛い思いをしなくても、済むかもしれない、という。

 

感じるちからのある人にとって、この世は生きにくい場所なのは間違いないと思う。でも生きやすいからといって幸せであるわけではない。幸せを求める権利はすべての魂が平等に持っている。その権利を行使するかどうかは、幸せを生きるという決意を人生のなかで持つかどうかにかかっている。