インナーチャイルドについての考察①

インナーチャイルドに取り組んで長い時間が経ちます。

この言葉は昨今とても広まって、ワークをしている方もとても増えた印象です。

 

そんな昨今を見回してみて、もう少しお伝えすべきことがあるなあというのが、今私の中にある思いです。

 

自分を愛すること

自分自身との信頼関係

(自己肯定、自己評価、自信の有無といわれるものすべて)

ひいては対人関係のすべて

(家族や社会との関係などすべて)

またパートナーシップに

愛と信頼を見出すことと

インナーチャイルドは

まるごとど真ん中にひとつです。 

 

インナーチャイルドとは漠然とネガティブなものとお感じ方、または実際に心の傷や修復すべき課題の部分であると認識なさっている方も多いと思います。

 

最初の段階で取り組む場合はそれで構わないと思います。

けれど、取り組むうちに必ず問題となってわき上がってくる疑問は

 

「いったいどこまで癒せばいいの?」

 

というものだと思います。

 

中には、インナーチャイルドが消えたから終わり、あるいはインナーチャイルドが大人になったから完了、というような声を伺うことがあります。

 

確かにプロセスの中でそんな変化を通過することもあるかと思います。

取組み始めたときはそれで構わないとも思います。

 

しかしこの取り組みを一人でやるとなると、全体の航路の地図が必要になります。

さらに地図を持っていたとしても地図を見ながら、かじ取りをして、なおかつ自分の意識という捉えがたいものを向き合って、しかもハートを開いて感じるなんていうことを一気にやるというのは至難の業だと言っていいと思います。

 

ハートを開くとはよく言いますがそのためには、「安心して」「リラックス」し「ゆだねる」という状態が必要です。

その時、愛の経路の扉を開くことができます。

 

例えば文章で読んで情報を理解し、自分に当てはめてみる。

自分の頭の中にあるものを文章に書き出してみる。

 

こういったやり方は思考の整理整頓にはなります。

 

でも、ハートを開いて感じる、感じきるということには実はつながっていません。

 

インナーチャイルドワークをするとき、変性意識状態、つまり瞑想の波長に入っていることが潜在意識の保護膜をゆるめ、内部を探索することに対してとても重要になってくるのです。

 

これを自分でするには、瞑想を重ね、自己意識をある程度自由に行き来できるような鍛錬が必要になってくると思います。

 

インナーチャイルドの問題とはなんでしょうか。

 

それを捉えるには、私たちは私たちがなぜ生きるかということを念頭に、あるいは視野に入れないと探求できません。

 

私たちがどのような存在で、なんのために、どのように生きるか。それが全体の航路の地図なのです。

 

潜在意識というのは「生きるために有益」な情報を優位に記憶します。そしてそれは自動的にサバイバル(肉体が生き抜くこと)を目的に働きます。

 

インナーチャイルドは潜在意識の中の、今世の肉体の記憶の部分です。

 

私たちが生きる本当の目的と潜在意識の働きが一致しているのなら、私たちには葛藤はありません。

潜在意識の本能に任せておけばいいのです。

 

しかしそうでないから私たちの心は苦しみます。

理性の上ではこうありたい、しかし体がついてこない。

 

夏休みの宿題は早く終わらせて自由に遊びたい。

でも今遊びたい。

 

今遊びたいから、宿題はあとで友達のを見せてもらってかたづけよう。

でもそんなことをしていたら自分はダメなに人間になってしまうのではないか。

 

早々に私たちは理想と現実のギャップに苦しみ始めます。

その不条理なギャップを生み出す原因は、意識の仕組みそのものにあります。

 

 その生命の初期に当たり、私たちの生命維持の手綱は、お母さんに握られています。奇しくもインナーチャイルドが最も大きく発達を遂げその大部分を成す0才~3才という時期のほとんどは、通常お母さんに命を委ねる構造になっています。

 

その事実とみなさんとのセッションの結果から私は独自の考察を重ねました。そしてインナーチャイルドの問題の核心はここにあると納得するに至りました。

 

私たちが全託を最初に学ぶのはこの時期です。その全託というのはなんのためにあるのでしょう。ただ肉体の機能を充実させるためでしょうか。そのために生物として負うにはあまりに不自然なリスクです。

 

この部分が、私たちがなんのために生きるかということと深く関わっています。

 

私たちが身体的に自立できない間に私たちは両親に完全に依存することによって、愛情と信頼という人間の精神性の核になるものを受け取ります。私たち人間が、ただ肉体を生きるために生きている生き物ではないということが、この仕組みから見えてくるのです。

 

そしてその後10年ほどかけてその基盤を固め、それから自立という段階へ進みます。13才以降は潜在意識の発達は止まります。その仕組みがこのことを裏付けています。自立というのは経済や生活の術ことではなく、生きて家族や社会への奉仕者となること、つまり受け取ったことを与える立場

になる精神的な準備ができているかどうかということがまず第一と考えなくてはなりません。

 

女性は16才から結婚ができます。結婚しお母さんになるということは、自分は置いておいてでも他者に与えることを優先し、その生活を持続できるちからがあるということです。そこには表面的な犠牲はたくさんあります。しかしその奥にある大きな喜びを受け取ることでもあります。

 

その喜びとは、あえて言葉にするのであれば、自分には生み出し与えるちからがあり、それを実際に行っているという、まさに神に準ずる権限を行使しているというような壮大な自己肯定感と言えるでしょう。

 

インナーチャイルドに深い傷や負債を抱えたままになっている人の多くは、自分が親になる(与える側になる)ということにおそれを感じています。自分の中に無償の愛の部分が足りていないと自分を責め続ける人もいます。それは一見与えることに不安があるように見えます。けれど、もっともっと深く掘り下げていくと、喜びを受け取る資格がない、という観念がその裏側に根を張っているのがわかります。

 

ここまで気づいた人が今度は自分の生活の中でなんとか自分が喜べる人になれるよう、好きを探そうとしたり、自分の望みをかなえる試みをしたりします。けれどもここでも問題が起こります。心の奥深くにある傷や負債をそのままにしておいて、外側の世界を楽しまなくては、もっと欲を出さなくては、などと自分を駆り立てることは、目新しさがあるうちはいいのですが頭打ちになることが多いのです。

 

自分には継続するちからが足りない、と、やはり自己否定や抑圧を重ねることにつながってしまいます。しかし本当の問題は、何かを成し遂げられないとか好きなことがみつからない、というようなことではありません。本当の問題は、多くの人がおそれから自分自身にすら隠していることが多いのです。

 

それは、愛することに関わっています。

 

愛することが充分にできない、という不安は、人生のあらゆる創造を妨げてしまいます。それは人生が失敗しているというかたちばかりで現れるわけではありません。人によっては、充分に成功しているというかたちで、自分自身の問題を見えなくすることもあります。自分は充分に自己実現している、あるいは必要なものは手に入れいているということによって。

 

愛とは何でしょう。恋愛を思い浮かべてみればそれは一時的に炎のように燃え上がる情熱のようなものと思う方もいるかもしれません。

 

例えば出産と子育てを考えると、お母さんにはたくさんの特典もあります。第一に子供は無条件にお母さんを愛し受け入れてくれます。その愛の絆は本能とも結びついていて、とても濃厚です。

 

また妊娠中は脳内に幸せ物質が満ちるので、自分が強くなるような、肯定的な感覚も生まれます。出産には苦しみも大きいですがそれだけに大きな達成感も伴います。母は偉大ですが、それだけ恩恵もたくさんあります。

 

恋愛に没頭している時も私たちには特別な恩恵を与えられます。(順番的に言えばこちらが先ですね)

 

どちらも、その後の日常的に愛を与え続ける体験の準備のために与えられた神からのご褒美先渡しのようにも見えます。

 

自分で言えば、恋愛のチャンスはたくさん与えられましたが、どれもそれが日常化してくるとこわくなって逃げだすか、試すことでぶち壊してしまうということが続きました。しかし、同時に失うとか、見捨てられる、去られるということへも大きな恐怖があり、それを体験するごとに心の傷はどんどんえぐられて悪化していったように思います。これはインナーチャイルドの問題に付随する典型的な症状の一つです。

 

インナーチャイルドに、愛は持続するものだという当たり前の安心が得られていないと、私たちは愛することにも愛されることにも不安が伴い、つまりは生きることへの充足や意味を見いだす体験を先延ばしにしてしまうのです。

 

逆に言えば、苦しみや怒り、悲しみが多い人生だったとしても、それを分かち合う愛があれば、人は人生に立ち向かったり受け入れたりという創造が可能です。

 

創造の源は、愛だというシンプルな真実がそこに横たわっていることに行きつくのです。

 

インナーチャイルドの問題を解決する極意は愛です。人生の問題の根底は、愛の欠如だというのは本当です。しかし多くの人がおそれているように、もっと子供与えなければという、もっともっとという意識は本当はあまり必要ではありません。

 

その人の心の底にある、自分は愛されている、そして愛する意志がある、という意識こそが、愛を与えます。

 

私たちが何のために生きるか、その答えは明白です。その明白な真実を体験し、自分のものとして行くことが人生において重要なことだと思います。