本当の自分

先日、夫がわたしについてブログに書いていた。

彼が何かを書く時は本当に思ったことしか書かないし、

ジョークでもネタでもないことはよく知っている。

 

あなたに合った治療法~凡人の行方

 

結婚して11年になるけど、今なんだ。

ずいぶん思いを温めたね、とも思う。

彼のブログを読むときはいつも楽しみだ。SNSも。

そうなんだ、そんなふうに思うんだ、と発見するから。

 

クライアントさんとのセッションがいつも楽しい(深刻でも厳しくても)のも

そんな気持ちに似ている。

 

褒められて嬉しいとかいうことではなく、

おもしろいので何度も読んだ。

 

そして、亡き父がなんだか喜んでいるのがすごく伝わってきた。

 

ところでこれを読んでみると、

自分が感じている自分とはずいぶん違ったイメージが浮かぶ。

 

超パワフルで風のように活動的?

身も心も軽やかで澱みを知らない?

なんだかそんなふうに読める。

そう読めるのは私の個人的感覚だけど。

 

実際は、というか自分が自分である感覚は、

まったくそうではない。もちろん。

 

ただ、内面の世界には限界はないと思っている。

肉体の能力は限界だらけだけど。

 

私は日々、自分の設けた限界の壁と出会う。

壁にぶつかるならまだいい。

それに向き合わざるを得ないから。

 

もっとずっと問題なのは、

無意識に限界の壁の中にいて、

そこから出たいとすら感じられない時のほうだ。

 

なんかすっきりしないけど、

何が問題なのかわからない。

 

そんな時私は、神ならどうだろう、と想像してみる。

あるいはもし神が私に、

 

「お前は完全に自由だ。さてもしそうならお前はどうあるのか?」

 

と言ってきたら、私はどうなっているのか。

 

どうなるのかはわからないけど、

間違いなく今のままではいない。

 

そう、その差異が現に今自分が設けている限界の壁なのだ。

 

断っておきたいのは、

ここでいう無限というのは肉体のことではない。

億万長者になってるとか、

すごい権力者になっているとか、

不老不死のからだになっているとか、

どこまでも自分に投資して自分を磨くとか、

そういうことではない。

 

私はどこまで愛というものを想像できるかということだ。

人間に唯一与えられた無限の能力である愛を

どこまで自由に想像できるのか。

 

私たちは愛以外のすべてにおいて本当に窮屈に作られている。

すぐに疲れてしまうし、

想像力はだいたい恐れに満たされて

防御か攻撃に使われてしまう。

明日の取り越し苦労に追われ、

過去の悔恨の上に未来を創造する。

 

疲れるに決まっている。

 

そこから離れるには、

私たちは神が与えてくれた最大の贈り物に気づくことだ。

 

愛について。

そのことについてどこまでも考え、想像し、感じてみることだ。

 

愛に興味がわいてこない人は、

愛について考えることを

すぐにやめてしまっているだけだ。

一度や二度の失敗で

あきらめてしまっているのだ。

 

あきらめて、

代用品に満足しようとして、

外側の刺激を追いかけてしまう。

そうしている間に持ち時間は過ぎて行ってしまう。

 

何かを手に入れてから

愛も手に取ってみようなどと思っていると

感じることができない人間になってしまう。

与えるということを忘れてしまう。

 

神を求めればすべては与えられるという言葉はそのまま

愛のために生きれば必要なものは少ないとわかるということだ。

 

私が愛について設けている限界はなにか。

私が神について設けている限界はなにか。

 

とてもばかげた命題だけど、

それを探してみようとするだけで、

これも、これも、と思い込みがみつかるものだ。

 

限界というのが思い込みだ。

その思い込みを指摘されると心は抵抗する。

 

抵抗を感じた時、

いつでもそこには

自分が設けた限界の壁がある。

 

それをみつけることだ。

壁の向こうには無限の御方の世界がある。

 

自分をみつけるというのは、

自分が作っている思い込みの壁をみつけることだと思う。

そしてそれが自分なのではないということを知ることだ。

 

自分のアイデンティティやパーソナリティーこそが自分で、

それを確立したいと思っている人にとっては

まったくの逆行ということになる。

 

もう一度。

自分をみつけることは、

思い込みに気づいて

それを手放すことだ。

あとに残るのはなんなのか。

 

それを知っている自分というのが

本当の自分だ。