絶対に必要なのに足りていないもの

人生に現れる壁を、他者のせいにしてはいけないと気づいても

自分が変わればいいと気づいても

それだけでは本当は解決しない。

 

誰かではなく、自分が変わるのだ、という「考え」は

一見潔いし、正しい。

 

セラピーはそのためにある。

自分が変わるため。

 

しかし世の中にあるほとんどの

一見正しい考え方やセラピーは

ゴミ処理機能のついていないゴミ捨て場のように見える。

 

この世に正しさを求めて生きるということは

手あたり次第にゴミを見つけては拾い集め

自分をゴミ捨て場にしていくようなものだ。

 

自分もかつてはそうだったし

今もそういう状態になっている人と多く向き合っている。

 

自分の身の回りを少しでもきれいにしたいと

その人は願っている。

家族、親族、社会、国家、そして地球を、と。

 

そうしているのに

自分は幸せではないと

喜びが感じられていないと

うすうす気づいている。

 

でもそれは単なる弱音であって

元気が戻ればまたつき進めると

そうすることが善きことと

或いはそれ以外に方法はないと

信じている。

 

神さまは遠くにいて

そんな自分を見てくれている、と

ときには信じることができる。

 

自分の努力があるとき認められ

神からのごほうびや許可が与えられるかもしれないと。

 

正しくないものが

あるとき裁きを受けて

自分の正しさが報われるときがくるかもしれないと。

 

正しさを求める人の心のどこかには

そんなかすかな期待があるのではないだろうか。

 

私にはあった。

そして、そのような思いが心にある限りは

戦いは終わらなかった。

 

私は何もかもを誤解していた。

誤解してもいたしかたないように育ち、生きていたから。

 

だから私はそんな自分の過ちを、ゆるした。

 

誤解していた自分をゆるすと決めると

世の中の過ちは、絶対的な悪ではなくなっていった。

 

すべては誤解なのだ。

そして私が立ち止まり気づくことができたように

すべてに気づきのときは来る。

 

私が私のタイミングでしか気づけなかったように

すべてはそのタイミングで起こるだろう。

 

もし私にできることがあるのであれば

自分が気づいて

進んで過ちを認め

そしてゆるすこと以外になにかあるだろうか。

 

それ以外に仲間を助ける方法があるだろうか。

 

ゆるすこと以外に。

 

周囲をきれいにしたつもりでも

いつの間にか、自分こそがごみ溜めになり

周囲に悪臭を放つことになっていないだろうか。

 

それに気づいて認めることは

ときに痛みを伴う。

 

これまで正しさによって裁いてきた矛先が

すべて自分に向かう。

 

そのとき、私たちには切実に神が必要になる。

それをも受け入れ赦す神が。

 

無限に、無条件に、受け入れ赦す存在が。

 

無限に、無条件に赦されたものだけが

周囲を受け入れることができる。

周囲を光で照らすことができる。

 

ゴミ溜めと化した心で

周囲を受け入れることなどできはしない。

 

内側にある無限の浄化装置とつながったものだけが

周囲を本当の意味できれいにできる。

 

内なる神とつながらない限りは

自分が変わることなど不可能だ。

なぜならそこにはゆるしがない。

 

裁きによってレッテルを張られた悪が増加していくだけなのだ。

自分はそうなるまい

自分はそうなりたくない

そうやって自分を裁いているうちに

溜まった悪によって窒息していく。

 

気づきのみが、その悪夢から目覚めさせる。

 

気づいたらあとはただ、求めるだけ。