神々は本当にいるのか。

世の中には役に立つ情報や教えが山のようにあります。

でもそれは時と場合によるものがほとんど。

タイミングが違えば無意味どころか逆効果になるものもたくさんあります。

冷えすぎたら温めなくてはなりません。

でも熱すぎるのに温めたらそれは無用か、毒になります。

 

そのなかで時と場合を選ばずあらゆる場面、局面でより良き方角を指すもの。

それが真理であり神なのではないかと思います。

 

この世は相対です。右よりも右のものがあれば、それは左に位置します。

上よりも上があればそれは下です。

時と場合で、その位置づけすら変わってしまいます。

 

中心ですら、なにを基準にするかで変わります。

世界のどこが中心なのか。それは世界をどこに限定するかで変わります。

 

でもなにがどうあろうと変わらないもの。

なにがどこにあっても中心なものがあります。

それが神です。

 

私たちが真の平安を得るには、

神の居場所に戻ってくることしかありえません。

それ以外の場所は、時によって右になったり左になったり

上とされたり下げられたりするからです。

 

私たち人間には、その神の居場所に戻るための、

異次元の場が装備されています。

人間の脳という装置がそれを可能にします。

 

その装置の調律をしてそこを目指すと、

私たちは神の居場所に戻っていくことが可能です。

その方法が瞑想です。

 

瞑想会で、その場に戻る瞑想をすると、

複数の方から「安全な場所」だと感じるという言葉をいただきました。

 

どうしてそれが異次元の場なのか。

個々の肉体のある場所にそれが不随しているというだけなら

それは異次元ではなく、からだの機関の機能にすぎません。

 

また、個々の違いによって、

その機能にも差異があることになります。

 

私たちが神に歩み寄るということで

神は私たちに完全なるひとつという次元を思い出させてくれます。

つまり、神と私たちはひとつであった、という真理です。

神がひとつであって初めて、私たちは等しく神の子だと言えます。

平等はそこにしかありません。

 

その真理が私たちの個々の違いを超えて

同じ、ひとつである平安をあじわわせてくれます。

 

ここで最も大事な概念は、

神はひとつしかない、ということです。

 

世の中では、信じる神の違いによって人が争っています。

それを傍目から見た人たちは心を痛め、

神を信じることへの不信感を募らせます。

 

私も子供心にその現象を不思議に思いました。

 

私のその疑問を解いてくれたのは

玉川大学に在学中の礼拝の講和での前島誠先生の言葉でした。

 

「神が間違うことはあり得ないが、人間は必ず過ちをおかす。

信仰は正しいが、宗教は人間が作ったものだ。」

 

私は心を打たれました。

しかし本当の信仰にたどり着くには

さらに多くの時間と体験が必要でした。

 

神さまはたくさんいて、どんな神さまを信じてもいいという考えは

一見寛容で平和な感じがします。

 

しかし、本当にそうなのでしょうか。

 

神々さまの、神と神の違いとはなんなのでしょう。

違いがあるから神さまはたくさんいるわけです。

 

それでは結局どこまでいっても私たちは

相対という分離の世界から自由になることはできません。

私が真ん中にいるためには常に

周囲の何かと自分を比べて移動を繰り返し

時には誰かを押しのけなくてはなりません。

 

さまざまな事象、あらゆるものごとの背後に

神さまの働きを見るということと、

多種多様な神々さまがいる、ということは

全く別のことです。

 

私が尊敬するパラマハンサ・ヨガナンダという人の中に

私はすぐに真理をみつけました。

 

ヨガナンダはその師のユクテスワから

西洋に行って、神がひとつだということを伝えなさい、

と告げられます。

 

大師たちは、

神がひとつだという真理をご自身の内側にみつけていました。

 

その方々から出てくる言葉は、

すべてが愛という神の御心によって包まれていて

私の思考を超えて直に語りかけられる心地がします。

 

私はたくさんの宗教や宗教家の言葉を

読んだり調べたりしてきましたが

時に完璧な理論に騙されそうになることもありました。

言葉に矛盾がないことほど危ういことはありません。

真理は言葉で示せないのです。

「どんな場合も正しい」ということは

この世にはありえないからです。

 

言葉にしたときにむしろ矛盾が生まれ

その矛盾を私たちが心を駆使して

埋めたりつなげたりできたとき

真理が完成します。

 

言葉から真理を読み取るには、

私たちが心を通して感じてみることが絶対に必要になります。

心をできる限り澄ませて、内なる神に歩み寄って

その力を借りながら精一杯に想像してみることを必要とします。

(愛についても同じですね。)

 

文字からエネルギーを受け取るにはいつも

そのようなこちらからの歩み寄りが必要なのです。

 

書いてあることを言葉通りに受け取ると

その理論に取り込まれてしまいます。

 

ヨガナンダは、

自分は悟っているから私の言うことを聞きなさいとは

絶対に言いません。

 

私はこのように神をみつけ、神とおつきあいしています。

神はこのようにすばらしく、このように私を導きました。

だからどうか皆さんもあきらめずにそうしてください、と言います。

 

その謙虚な在り方が、

本当に悟ったものの当たり前の姿勢なのだと思います。

私は自分が感じてきた、悟ったと自称する人への違和感が

正しい感覚だったのだと理解しました。

単に、偉い人への嫉妬や反発ではなかったのだとほっとしました。

 

ヨガナンダは、

ヒンズーの神の子クリシュナとキリスト教の神の子イエスキリストを

同じ神のひとり子と教えています。

 

ヒンズー教の聖典バガヴァッドギーターの中でクリシュナはこう言います。

「どのような神をあがめている人も、本当はみな私をあがめているのだ」

 

イエスキリストも聖書で同じようなことを言ってます。

 

これを人間が思考で読むと、こんな矛盾はありません。

信者の取り合いか、という感じになります。

そこでその違いに対して争いが起こります。

どちらが正しくどちらが偉大か、という競争です。

 

しかし全き真実の神に違いとか優劣が、

そもそも分離があるというのでしょうか。

 

そのことを理解するには

私たちは内なる神に心を開きゆだねて

導きを請わなくてはなりません。

 

瞑想なしにそれを実感することは不可能でしょう。

神を直接自分で体験することなしには。

 

ヨガナンダジはそのことを伝えるために

キリスト教徒の国アメリカへ、インドから渡り

宗教を超えて、本当の神、本当の信仰を伝えます。

 

神を信仰するということは

神を何よりの頂点、中心、

そして全てだという真理を受け入れることです。

 

そしてそれが本当にそうであるということを

直接わからなければなりません。

 

その神のもとにあって初めて

この世の一見矛盾した不平等を

等しく神の被造物として尊ぶことを学ぶことができます。

 

神の視点から世界を見る努力をすることでしか

そのことを深く受け入れ理解することはできません。

 

信仰はその努力に報いてくれる唯一の道です。

 

自分の目に頼っている限り

私たちは物事をあるがままに見ることはできません。

すべては上下左右に分類されるしかないのです。

 

あの人より私のほうが正しい。

あの人より私のほうが劣っている。

私はあれよりはましだ。

 

その視線はどんなに小さく見積もっても

裁き続けます。

 

神の正しさにはその反対はありません。

人間の思考が正しいと判断するものはいつも相対的です。

ですからどうしてもその反対が存在するのです。

 

判断、ジャッジメントを手放しなさいと

スピリチュアルではよく言われます。

しかしそれは、神の正しさを受け入れなければ不可能です。

 

最初の何度かはできたとしても

いづれ機能しなくなります。

当たり前です。

それはただの、なんでもありになってしまうだけだからです。

 

神の導きに従うと、

これまでの常識を覆す体験がやってきます。

 

その時、思考の判断をせず、

何かのせいにしたり何かを責めたり

これが「正しい」結果、これは嫌だと決めつけず

それを手放して、まず受け入れてごらん。

そしてそれがどうなっていくのか

見守りついて行ってごらん。

そういう姿勢でいるとき

神があなたにぴたりと寄り添っていることを

感じることができるよ。

またその行き着く先にあなたは

わたしのみわざをみるだろう。

 

神は瞑想を通して優しくそっと語りかけます。

その声は不意に私たちの心に届きます。

その時、この世でしかなかったこの世の次元とは

 

違う景色を見ることになるのです。