心を通してしか見えないもの

人は死を恐れ、喪失を恐れる。そして、その恐れから目を背ける。

人は本当の感情を恐れ、その感情を封印する。

 

二度としたくない思いというものを人生で体験しない人はいないだろう。

(そうでもないですか?私には多々あります。)

 

自分が感じることを避けている重石(おもし)はいつか自分自身をつぶしにかかる。

 

人生で繰り返し自分にのしかかる警告は、その重石が、鍾乳洞の石灰水が成す結晶のように流れるのをやめてあなたそのものと同化し、化石化してしまうことを止めようとしている。

 

その警告の発信元は、魂という愛の意識体だと私は理解している。

 

この世は、愛という真実と恐れという幻想でできている。

私たちは真実と幻想のはざまを行ったり来たりする。

 

愛を求めながら幻想にしがみつき、愛によってゆさぶられ、愛そのものを恐れる。

しかし人を恐れから救うのは、愛だけだ。

この不条理が私たちを混乱させる。

心に目を向けたとたん、渦巻いている欲望と不満に恐れをなす。

 

混乱は心以外に、ここでないどこかに、救いがあるという幻想を抱かせる。

心以外の何かで、例えば思考や知識という確かな代用品でなんとかならないだろうかと。

 

しかし、神も、愛も、心でしか見ることはできない。

 

宇宙の果てまで、進化の果てまで見たとしても、心を通さなければ私たちはなにも変わらない。

 

共感と想像というちからが人間に与えられた進化の道具だ。

それによって私たちは、肉体の体験以上のことを知る。

 

あなたの痛みを自分の痛みのように受け取り

そしてその痛みが愛によって癒されることを知る。

 

その愛を自分が持っていることを体験する。

 

あなたの喜びを自分のことのように受け取り

そしてあなたの気づきが、私の時間を縮め、私を前に進ませる。

 

悲しんでくれてありがとう。

その悲しみが私たちに教えてくれる。

怒ってくれてありがとう。

自分を苦しめながら、その体験を知らせてくれて。

 

すべての人の体験が私の一部であり、私の体験がすべての人のものだとわかったとき

 

死も喪失もなくなる。