究極のいやし

僕の中のちいさな僕が

「どうして誰も助けてくれないんだろう」

と言う。

 

その僕の心は?

 

「助けてほしい」って?

 

どんな気持ち?

「いやな感じ。」

 

どんなふうに?

「落ち着かない」

 

「イライラする」

「疲れてる」

「絶望的」

 

それから?

「こわい」

「怒ってる」

 

ほかには?

「さびしい」

 

なにがつらい?

「なにもできない」

 

それから?

「動けない」

 

どうしたい?

「わからない」

 

どうしてほしい?

「たすけてほしい」

 

 

あなたの中にこんな僕はいますか?

 

彼の声はほとんど無理な要求。

正しい答えはなく

なにがしたいのかも

なにをしてほしいのかもわからない。

 

そして出口がみつからないことが多すぎて

どこにも行けずにいる。

 

どうしたら安心するのかもわからない。

「だって、安心したことなんてないから」

 

 

だからきっと、みんな彼を見ないふりする。

自分の中にいても

彼をみつけたくない。

みつけたって、なんにもできないじゃないか。

そんな僕にどうやって安心させてあげられるのか。

 

なにを与えたってなにを取り除いてあげたって

きっと彼は満足しないだろう。

 

彼に寄り添うってどういうことなんだろう。

助けるってなんだろう。

 

 

それはたぶん、彼が自分の足で歩いていることを

見ていてあげることなんだろうと、私は思う。

 

赤ちゃんのとき、初めて歩いたとき、

お父さんやお母さんが感嘆の声を上げ

心の底からの笑顔を見せてくれたその感触を

その子がもし体験しそこなったなら

 

おとなになった自分が

もう一度見守ってあげればいい。

ちいさな僕が自分から歩きたくなるまで。

 

そして歩いていることに気づけるまで。

 

しばらくして振り返ると

こんなに歩いてきたんだと

そこで初めて

歩いてきた自分を感じることができるようになるまで。

 

自分には、できる。

生きることが。

 

自分で決めて、自分がやっている。

そう気づくことだ。

 

誰かに傷つけられたんじゃなくて

自分が傷ついたんだ。

傷ついて、いいんだ。

人は傷つく。

 

その痛みを

復讐することにも愛することにも使える。

 

そうやって、選んで、感じて、歩むことなんだ。

 

どうしようもないほど傷ついたこどもが

本当に回復するというのは

きっとそういうふうに歩むことなんだろうと思う。

 

 

それが自分を思い出すということだ。