準備ができているひと

よくスピリチュアルで「準備ができている」という言い方をする。

実は私も遣う言葉だ。

言葉でその状態を端的に解説するのは難しかった。

多分その基準は遣う人のイメージや世界観で違っているだろう。

 

先日ある出来事をじーっと考察していてふと出てきた。そうか、このことか、と。

 

怒っていたいのか、それをもう、やめたいのか。

もうやめたい、と思ったときに準備ができる。

 

それは一段階階段を上がるときだったり、真実に気づくときだったり、それを受け入れるときだったりする。

怒っていたい間、私たちは自分のほうが優位だとか正義だということを確認あるいは証明したがっている。

あるいは誰かのせいで今のこうした被害者となっていると感じている。

いづれもその背後には恐れがある。

 

でも、理由はどうあれ、成り行きはどうあれ、もう怒っていたくない、そこから出ていきたい、と決意したとき、ゆるすチャンスが来る。

ストーリーを辿るのをやめて、今に戻るときだ。

 

怒りはしつこく、私たちに誘惑をしかける。

こっちのほうが真実だよ。

ゆるしたら損するよ。

また同じことをやられてしまうよ。

ここまでやってきたことが無駄になるよ。

 

しかし本当は、ゆるさない思いこそが同じ目に何度も遭わせてくる。

 

理由はどうあれ、理屈があってもなくても、怒っていたいうちはその世界、怒っている相手と同次元にいる。

 

誰にも怒っていないと思っている人も、自分に対して怒っていることに気づいていない人は多い。

自分を裁き、愛せないでいる。

自分はどこで間違ってしまったのだろう、自分が間違ってしまったから報いはしかたない。

そういう思いはよくあることだ。

 

本当はすべての対象は自分なのだ。

自分をゆるし、愛することを始めるかどうか。

その準備OKのサインが、怒っていることをやめたいかどうか、なのだとシンプルに言えると思う。

 

怒ること以外に、ものごとを明らかにする方法を私たち肉体は学んでいない。

間違いを正すとき、正当性を主張するとき、悪を退けるとき、愛情を訴えるときさえも、肉体は何かと競い、勝ち取ろうと躍起だ。

 

もし怒っているのをやめるなら、新しい在り方をみつけなくてはならない。

それを知っているのは、私たちの意識と、意識を探究して自らの内側とつながろうとした人達だけだと思う。

 

真実の波動を受け取る準備。

愛の波動を受け入れる準備。

 

それは、エゴの主張から離れることだと思う。

その悪夢はしつこいけれど、真の自己と肉体に張りついたエゴとの間にちょっとでも風穴があけば、それは可能だ。

その風穴から神の、聖霊の、助けの手が入る。

 

私たちは神に戻り、愛に還り、光となることができる。