感受性を解く

「感受性の強い女性がなぜ嫌われるのか」というネットの広告が出てきてすごく違和感を感じた。このコピーはひどいな、と思って、そういうものはほぼスルーするのだけれどあえてクリックしてやった。そうしたら、心と体の分野でかの有名なおのころなにがしのものだった。違和感を通り過ぎてあきれてしまった。

 

要はHSPとインナーチャイルドで苦しんでいる人への釣りなのだ。

 

でも評判が悪かったのか(私が憤慨するくらいだからよっぽど)今朝は「感受性の強い女性がなぜ生きづらいのか」というありきたりのものに差し替えられていた。

 

 

 

私は物心ついたときから感受性の強い両親のもとで感受性の強い女の子として育った。感受性が強いせいで、不便なこともあったし非常に苦しんで生きた。でも世界のあらゆる美しさや優しさや強さ、そして何よりも愛という学びを私はそれによって与えられてきた。それは豊かさそのものなのだ。

 

もし私が嫌われていたとしても、それは感受性が強いからではない。でも、嫌われている感覚というものにとても敏感だから、それをとても恐れていた。それは間違いない。

 

 

 

もし感受性の強い人のことがわかる人だったら決して、決して、決して、こんなコピーで商品を売ろうなんて考えない。あり得ない。と、私は思う。感受性の強い人が生きにくい世界を創っているのがこういった発想そのものなのだ。

 

でも仕方ない。そういう入り口からしか人生のレッスンを進められない人もこの世にたくさんいるのだ。彼の入り口から光へ旅立つ人も多いのだろう。それを祈るしかない。

 

ちゃんちゃん。(と、私はその扉を閉める)

 

 

 

私は別の扉を開く。

 

 

 

私は、違う世界を見る。

 

 

 

それは、この次元と肉体の発想に縛られたものとは全く違う。

 

 

 

無制限で自由でありのままの世界。

 

 

 

トリッキーで奇想天外でミラクルな世界。

 

 

 

そしてなにより、実際的でシンプルで優しい。

 

 

 

なぜ人はそんなにも複雑に混乱しているのか。

 

 

 

しかしその謎解きは楽しい。

 

 

 

どんなに混乱していても、信頼と受け入れる姿勢があれば、世界は変えられる。

 

 

 

愛という視点から世界を見るのだ。

 

 

 

人は自我という視点から愛を探す。神を探す。

 

自我のどこらへんに愛があるのか、神がいるのか、と。

 

そして愛以外の自分をののしる。

 

それらはすべて自我の中で行われている。

 

 

 

自我の中を探すことをやめると、愛に気づく。

 

その導きそのものが神なのだ。

 

 

 

私たちは愛に属している。

 

自我は愛の中で暫定的に愛と自分を区別している壁にすぎない。

 

 

 

自我の中でさ迷っているうちは、光は外に見える。

 

宇宙は遠く、自然は自分とは無関係に輝いて見える。

 

すべての人は自分とは無関係に存在している。

 

私はそこに関係を”うまく築かなくてはならない”と思わされる。

 

 

 

愛という視点に戻ろう。

 

宇宙は、愛というエネルギーで満ち、愛が創造している。

 

魚における水のように。

 

私たちは束の間、魚から漏れた気泡のように、存在する。

 

気泡と気泡が出会うと、隔たりは消える。

 

気泡は漂い旅を続け、形を変え、やがては水に溶けゆく。

 

 

 

自我の創った世界は巧妙に、優劣や強弱や生死を信じさせようとする。

 

しかし愛は、溶け合う幸せをただ感じさせてくれる。

 

 

 

感受性とは、神が人間という生き物に与えた愛そのもの。

 

私たちはそれを理解し受け入れ信頼する旅をしている。