今という体験

人間は経験したことしかわからない、ということを絶対的に本気で主張しているおじさんに会ったことがある。私がまだ役者をしていた時のこと。だから経験したことしか演じられない、と、その人はやけにムキになって言い張った。

 

「じゃあ私が娼婦の役をやるなら私はほんものの娼婦にならなきゃいけないの?」

 

と私はその時、ギャグで言った気がする。そうだ!おじさんは真顔で、切れ気味に言った。

 

わーお、まじにそう思うんだ。それならしょうがないや。ちゃんちゃん。

 

 

 

人は確かに体験から学ぶ。頭で考えたことを、現実は常に覆す。憶測でものを言うと痛い目に遭う。確かに。

 

前回記事で、経験値という言葉を使った。潜在意識は経験値のデータの集積だ。だから潜在意識からデータを引き出すことは、才能を使うことに他ならない。例えば不幸な人は不幸な才能を使うことに慣れている。逆もまたそう。

 

演技という表現はこれを使う。その使い方を訓練するのが演技の基本だ。才能というのは神秘的なものではなくて、とても実際的なものなのだ。体験の記憶を引き出すのだ。

 

それは、思考の産物の幾千倍の真実味がある。

 

 

 

ここで意識の仕組みのおさらい。

 

思考(顕在意識)< 肉体意識(潜在意識)< 超意識(魂)< 宇宙意識(神)

 

これが私たち人間のなかみ。

 

 

 

体験に価値があるというのは、それがすべて、今にあるから。

 

でも経験値を持ち出して比較対象して分析するのは、思考がやることであり、それはすべて、過去の産物。

 

 

 

今という体験以外に、意識のすべてを同時に知ることはできない。

 

今という体験。今の中にすべてを体験すること。

 

その方法が瞑想である。

 

 

 

瞑想なしに、或いは瞑想的な訓練なしに、私たちは今の中にすべてを見ることはほぼ不可能だ。

 

これが今であると認識している「今」は、ほとんどの場合過去の経験値をなぞる思考であったり、過去のデータである感覚や感情の浮上でしかない。

 

つまり、肉体意識にとどまっている間は、それは過去に生きていることと同義である。

 

本当の今にいるためには、それ以上の意識、つまり「すべてである」もの、愛や宇宙(魂や神)と言われる意識状態を、体験しなくてはならない。

 

 

 

肉体が認識している愛と、無条件の愛の間には、次元の差がある。それは経験値では決して超えられない。神から与えられた想像の力を使わなければ。

 

そしてその想像の力を、経験値からの逆算あるいは延長という制限から自由にしてあげなくてはその次元の差の橋渡しはできない。

 

 

 

少し前に理解できなかった形而上的なことが理解できる瞬間、あなたは次元をまたいでいる。瞑想が、内なる神を求めることが、それを可能にする。