あなたは選ばれている

2019年6月22日。今日は夏至。

 

明日は沖縄慰霊の日。沖縄移住から11回目を迎えます。

 

全体的な意識の変化の波を感じています。なにか行動をしたくなるけれど、大きなうねりの中にある時ほど内なる神にしっかりとつかまって、そこにこそ耳を澄ませること。そして安堵の中で状況を見守ること。

 

力んだ意識で見てしまうと、そこに自己の恐れや願望を投影して見てしまいます。

 

大きな波が去ったら、自分がどこにいるのかやがてくっきりと見えてくるでしょう。

 

 

 

私自身がただひとつの神をみつけた喜びはこの世のなにものにも代えがたいほどです。それが正しいからではなく(もちろん真理は正しいのは当たり前なのですが)それ以外に自分を安堵させるものがこの世にないということがなんとなくわかってしまったからだと思います。

 

誰もが特別ななにか、特別なパワーに、特別に守られたり愛されたりしたいと願っています。特別ななにかから、君は特別だよ、と言われる喜びというものを、多くの人が探し求めているように思います。

 

そして選ばれれば救われるような、そんな漠然とした指針のもとに人生を歩いています。自分がなにかを得るために努力すること、向上心なども含めてそうなっているように観えます。

 

それは人生にカンフル剤のような高揚を与え、生きる手ごたえを与えます。小さな達成も同じです。お掃除や、断捨離や、例えば他人に喜ばれるような奉仕ですらそうです。

 

そして、他人を喜ばせることに限界を感じた人は、自分を喜ばせるために生きたいと願います。昨今のスピリチュアルではそういう方向づけがあり、取り組んでみるけれどもそちらのほうが難しいと感じる人も多く見受けられます。順番が逆の人もいるでしょう。

 

肝心なのは、自分の喜びと他者の喜びは同じものであるというゴールであり、それは神なしにはたどり着けないゴールだということです。

 

内なる神なしに試みることの限界を私は体験しました。たとえ世界中の天使やガイドや聖なる存在たちが私を助けようとしても、私が特別だと言ってくれたとしても、その高揚のカンフルが切れたらきっと、生きることが更に虚しくなることでしょう。結局内側の自由なしに、私たちの幸福はあり得ないのです。

 

神はあなたに、君は特別だよ、とてもとても大切な存在だよ、と語りかけることは大いにあります。そして神はすべての一人一人に対してそうだということです。

 

そのことがわかるためには、自分は愛されていて、愛に値し、そして愛を与えることすら可能な存在であり、あなたこそが愛そのものである、という真実に目覚め生きることがどうしても必要です。

 

ですから神は、他の人と比較したり他の人がどうであるかということをまったく問題にしません。ただ、あなたは神のただひとりの子であるという真実をあなたに教えます。自我が受け入れるまでは、求めているのに受け入れられなかったり、あるがままを認めることが難しかったりいろいろです。そのいろいろは、自己意識(自我)が経験上作ってきた障壁のためです。その障壁はすべて、体験の当初に必然的に作られました。そしてそれを手放すことは、身の危険の感覚を伴うがゆえにとても難しいのです。

 

自我の作った障壁によって守ってきた自己を、それ以上の大きなパワーで守ってくれるのが神です。そのことが理解できるまでは引き続き自我の障壁によって自己を守るので、私たちは自分の城に閉じこもって、自由になることができずにいます。

 

スピリチュアルを学び始めると多くの人(私を含め)が、この城の所以や成り立ちを知り始めます。そしてそれゆえにこの城はすばらしく、その城を更に強固にして守らなければという意識に陥ります。過去世の体験こそが今の私を作った、というようにそれを持ち続けたくなるのです。そしてその城を守るために神すらも利用します。神とつながれるのはその城あってこそだと感じたり、その城ゆえに自分が特別だと感じます。それは決して悪意ではなく、ただその城に価値があるという思いがそうさせるのです。

 

その時はまだ本当の解放は始まっていません。もうこれ以上城、つまり自我の砦に留まることはできないという魂の呼び声によってその城の解体が始まります。城ではなく、本当の家に還って守られることを自我が選ぶ時がそれです。つまり自我が降参するのです。

 

神の家に還る旅は、その城に意味があるという夢を信じ切っている間は始まりません。もちろん、その夢をとことん味わえばいつかは有限で頑なな城に幻滅する時が来るかもしれませんが、恐らく長い道のりです。なぜなら人は願望を追いかけるほどにその夢に没入してしまうからです。

 

そうしているうちにも魂はいつでもあなたに声をかけています。とても小さな声です。自我の大きな声に耳を傾けている間はそのささやきを聞き逃してしまいます。自我の大きな声は過去の体験の記憶による再生であり、過去の出来事への所感を放送し続けています。夢や感情や体感、思考、様々なところでその声を聴かされます。あたかも神の声だと思いたくなるような聞き慣れた声です。

 

内なる小さな声はその大きな声が鳴りやんだ狭間に聞こえます。

 

それは聞こえるものですらありません。

 

その声はただ、「わたし」が永遠普遍の真実であると魂に伝えます。普遍の真実は特別の対極にあり、すべて、ひとつであるということです。そのすべて、ひとつであるものが「わたし」であると告げます。

 

誰一人としてその救いの網目から取りこぼされることはなく、地獄もそれに呼応する天国もなく、ただ、今ここが天国であり神は最初も終わりもない真実であったとあなたが気づくことで悪夢は終わるのだという真理。

 

そして最後のひとりがその悪夢から覚めるまで、神は待っている。最後のひとりが神の家に還るまで、私たちは連帯する。最後のひとつの細胞が目覚めるまで私たちは繰り返し、愛する。愛を生きる。幼い未熟なちからで。

 

AZU拝