全き愛、唯一の神

もしこの世界に神々がたくさんあって、いろいろな神がいるというのなら、そしてそれをスピリットと呼んだりガイドや守護霊などと呼んであがめるのであれば、或いはなにかをあがめるのが嫌いな人々がそれを友達のように扱って自分の生活に協力させたりそれを預言や啓示のように扱ったりするのなら、それにどんな意味があるのだろうか。

 

高次元を単に固体より波動の細かい気体となったものだとするなら、スピリチュアルを肉眼に見えないものを含めた物理の世界のことだというなら、それになんの意味があるというのだろう。

 

私には無意味だと感じられる。

 

もし人が多種多様であるように神々も多種多様だというなら、人にそれぞれの価値観があるように神々にも価値観の違いがあり目指す理想や頂点が違うというなら、或いは自分と違う神を認めるというような、一見人の価値観からすると寛容な主義をもつ神がいたとして、果たしてその神の存在意義はなんなのか。

 

神はひとつであるということは圧倒的な真理だと私は思う。そしてそこにしか究極救いはない。

 

セッションをしていて私はいつも救われている。目の前の人が内側になにかをみつけて視野を広げ、自分そのものへの概念を変えていかれること。世界というものの捉え方を変容されていくこと。それそのものが癒しであり奇跡だと感じる。

 

生まれ育った家庭を含めた環境に適応して私たちは育つ。そしてそこで培われたデータベースをもとに人生の旅をする。それが自然な営みだ。しかし神だけが、そこへの書き換えを可能にしてくれる。神の恩寵、神の慈悲、神の愛だけが、私たちが体験したことのない真実の愛、つまり神ご自身を私たちに植え付け、再生可能な状態で私たちに持たせてくれた。

 

安心感なく育った。与えられずに育った。傷つけられながら育った。両親の戦いに、愛憎に巻き込まれながら育った。生きる過程で自信を失い、目的を見失い、どう生きていいかわからなくなった。そういうきょうだいたちが地上には大勢、生きている。がんばって生きてくれている。

 

愛を体験するために地上に降りた魂にとって、自我の戦場は過酷だ。

 

しかし魂は覚えている。自分が本当は愛そのものであり、それを分かち合うために来たのだと。魂は無限の本当の親、本当のふるさとから来たのだと。

 

もし神が分裂していたら、あの神はこれ、この神はあれが良いと言い、あなたの目的はこれ、この人の目的はあれだと言ったら、人同士の真の理解や分かち合いや癒しは起こらない。対立は永遠に続き、戦争は決して終わらない。和解も赦しも、時々、偶発的に起こったり起こらなかったりする。

 

私のワークも気まぐれな結果しかもたらさないだろう。そんなことを続けることは私にはできない。

 

沖縄は信仰の深い地だ。しかし分裂した神々を信じている人には親族同士、結婚した家族同士での対立が多い。このやり方でなければ神に届かない。災いは違いのために起こる。その痛みに信仰から遠ざかる人も多い。

 

ムスリムが信仰のためにテロを起こすと世界では信じられている。日本でも信仰と自我が混乱して大きな無差別テロがあった。多くの人が神を理解できずに神から遠ざかっている。しかし同時に、幸せと、愛からも遠ざかろうとしている。

 

心を閉じたまま、心の目を閉じたまま、生きている人が大勢いる。

 

神がひとつだというイメージは誤解されている。

 

一神教と多神教では多神教のほうが寛容というイメージもあるかもしれない。

 

一神教と多神教というふうに神を分けることが可能だろうか。もちろんノーだ。

 

神々とは単にひとつである神の顕現に過ぎないと私は思う。

 

ひとつの神に多くの扉があり、あなたはあなたに近い扉を開ける。それだけのことだと。しかし扉を開けるには多くのしきたりや伝えきれない叡智がある。人間が悟っていない頭で解釈したための誤解も積み重なっている。それを学ぶだけで幾世もの人生を費やす。ひとつの扉を追及しているうちにその扉だけが真実であるかのように錯覚が始まる。

 

クリシュナは「どの神をあがめている人も本当はわたしをあがめているのだ」と言い、キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言う。それが神から見た真実だと思う。クリシュナとキリストに違いはない。神の側から見ることが可能な人にとっては。

 

もし神々が分離していたとしたらどの神にも限界があり無限ではない。その神に依存したとしても私たちは限界のあるゴールにしか向かうことができない。そのゴールに意味があるのか。ないと思う。それは幻想のゴールであり、それは通過点ですらない。それはこの世にある自我の幻想の価値観に属するものだ。その有限のゴールのために、本当の天国を見失うのだ。今すぐに向かっていいはずの真実を見過ごしてしまう。少しは良くなっているに違いないという過信や己惚れにも誘惑される。

 

過去世ワークをしていて昔よく出会った過去世のお坊さんがたは往々にしてそういう状態にあった。

 

スピリチュアルの挑戦は宗教に属さず或いはそれを超えて神を探究することだと思う。しかしひとつの神という真理の領域に踏み込む者は少ない。宗教の枠組みを超えるつもりが神そのものから遠ざかるものも多い。

 

ひとつでない限り、神は有限である。有害であるすら言わなければならない。有限のものの価値観は、有限の中でよりよくなることでしかない。どこまで行っても二元論の価値観から逃れられない。より良くなるためにはなにかと比べなくてはならない。この世にあって、私たちはより良くなるために獲得し続けなくてはならない。ネガティブな体験を避け、ポジティブな体験を好む。まさにこの世そのものだ。しかしネガティブは決して消えはしない。なぜならそれが世界を構成しているからだ。

 

ひとつの神はその二元世界そのものから私たちを目覚めさせ、引き離してくれる。正解のない戦いという悪夢から、或いは自分だけが優れている、優れていたいという悪夢からそっと目覚めさせてくれる。

 

私たちは等しくひとつの神の一部であり、等しくひとつの神を宿す者だ。

 

私たちはその神のもとに等しく愛を宿しそれを顕現させることができる。

 

そしていかなる状況、いかなる側面にあろうと、今そこから神を思い出すことができる。神の子としてふるまうことができる。それを選ぶことができる。その恩寵によって、この世の法則を超越することさえも許されている。

 

それは私たち二元性の世界で生きる生き物の目で見れば奇跡であり、ひとつの無限の神から見た自然である。

 

それが全き愛の世界だ。

 

私たちはそんな究極の探究を許された世界に生きる。違う意識の時代からみるとそれはそれは恵まれた世界なのかもしれない。

 

 私たちはただ心を通してその道に招かれその道を生きることができる。心という扉を開けることによって。

 

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その道をご一緒できるよう、ささやかな場を作っております。セッション、そして瞑想会でぜひご体験ください。

 

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鍼灸師・ヒーラーの風間真吾と、心のセラピストAZUの主催による瞑想会です。深い瞑想は私たちを本来の無限の魂の意識へと呼び戻してくれます。瞑想の磁場と波動をご用意してお待ちしております。私たちの施術、セッションの根幹をなす癒しと瞑想の時間をご一緒にお過ごしください。

 

 

 

場所  ルーア心のセラピーセッションルーム(南城市知念具志堅34-4)

 

日時  2019年6月23日㈰ 午前10時から12時

 

ご参加費  1500円

 

内容  リラクセーション、ヒーリング、ボイスヒーリング、誘導瞑想、瞑想、経絡体操、シェアリング、質疑応答

 

定員  8名様まで(参加者おふたりさまから催行いたします)

 

お申込み  お電話かe-mailで、お名前と、初めての方はお電話番号を添えてください。✆ 098-928-3925 ✉ ruach@live.jp

 

締切  前日18時までにご連絡ください。

 

※駐車場はございますが、狭めのためお乗り合わせてのご参加は歓迎です。

 

※お電話かメールにてご連絡ください。よろしくお願いいたします。