便利に生きるための知恵と幸せに生きるための知恵

今日はウチャトー。わが家の火の神さんからは沖縄独特のお線香の香りが漂っています。

 

先日は「こんなこと言うとおかしいかもしれませんけど、目覚めたいんです」というテーマでセッションにいらしてくださった方がいました。おかしいでしょうか?私にとっては王道中の王道のテーマでとても嬉しかったです。

 

人は生まれてきたからには死ぬまで生きますが、生きているぞ、という実感を持って今を生きる人がどれだけいるでしょう。人はどこから来てどこへ行くのか。なんのために生きるのか、という問いこそが人の本質に関わる問いです。

 

その問いを持って生きているといろいろな返答に出会います。例えば、そういう問いは愚問だ。人はただ生きるのだ、というような答えもあります。

 

もしかしたらそうなのかも、と信じてしまう時期もありました。なぜなら、誰もが心のどこかに持っているはずの当たり前の問いなのに、その答えの片りんを持って生きている人があまりに少ないようにこの世が見えたからです。

 

自分は無意味な問いに人生を費やしてしまっているのかもしれない。そう思えても無理がありません。

 

昨日はTwitterで、こんな記事を見ました。ある日本人があるカナダ人から言われたそうです。

 

 

「日本人て世界で一番芸能ニュースにアクセスしてる人たちなんでしょ、こっちは中学生から環境問題の話とか政治の話を普通に話すよ」って言われた。調べたら本当だった。

 

 

芸能人のはしくれの家族に生まれ、自分もはしくれにいた身ではありますのでいろいろと思うところもありますが・・・今はその日本人の集合的意識を政治利用する世の中ですし、発信する側の意を得た世相にまんまと陥っていると感じます。

 

私たちはただ生きているだけだとそうなります。慣習に流されます。そして悪事を働いた覚えがなくても知らないうちに様々な悪意に加担し隠された悪に上書きを加えています。

 

「グレイテスト・ショーマン」という映画、二度目の鑑賞をしました。私は割と二度見するほうなのですが夫が進んで二度レンタルした映画はこれとあとひとつだけです。

 

私は二度目が更に良かったです。そこには人間の自我からにじみ出る様々な対立が網羅されています。

 

上流階級の出の白人男性が黒人女性に恋をし、初めてデートに誘った劇場で両親と鉢合わせします。すると父親が「お前、恥ずかしくないのか、メイドを連れて歩くなんて」というのです。女性はその場を立ち去り、あとを追った男性が女性に「(両親は)心が狭いんだ」と謝罪するのです。

 

私はこの「心が狭いんだ」というセリフが的を得ていると感心しました。

 

この両親は多分、当時のアメリカの世相においてごく良識ある人々なのです。その良識の中では黒人=奴隷、つまり人権と尊厳のない、人の型をした売買されるべき労働商品であり、たとえ法律で解放されていたとしても、そもそもがそういう存在だという認識なはずです。

 

それは歴史であり現実です。歴史や体験からくる概念を信じて疑う余地がないのです。心が概念で占められているから心が狭いのです。

 

私たちの心はこういう概念で占められています。今も。誰もが。だから、相互理解が難しく、新しい視野や見解、そして未知の体験に進もうとする時は必ず、この概念がストッパーとなります。

 

私たち人間は知恵や経験値という名の概念のかたまりです。潜在意識の中身はほとんどそれです。

 

体験によって学ばれカテゴライズされてラベリングされた概念は、いつか融合され統合されて行かなくてはなりません。私たちが等しく心を持ち、その心を占める概念を精査し解体して手放すと、内側にスペースが生まれます。スペース、つまり宇宙です。そのスペースこそが私たちの分断された意識をひとつにつなげてくれる、神の住処です。

 

多くの人は神を疑いはしますが、概念の方は疑いません。なぜなら概念は経験に基づいているからです。肉体に刷り込まれた記憶だからです。自分の肉体が知らなくても先人が刻々と刷り込んだ集合意識を信じています。本能的に私たちはそれを知っているし、知っているほうが、この世において有利だということを知っているのです。

 

多数派に人はなびきます。慣習に人はのまれます。それが有利だと本能が知っているからです。(便利に生きるための知恵)

 

しかし本能に逆らってでも、魂は未知へ、更に広い視野へ、より崇高な自己へと人を連れて行こうとするのです。(幸せに生きるための知恵)

 

真理を探究することは、このように無意識に刷り込まれている無数の概念の棘を自分から抜き去るようなことです。棘を抜いてみると初めて人は、棘のないスペースを実感できます。棘にまみれた自分が自分で気づける棘の数はたかが知れています。神という光に照らしてもらって、自ら鏡に向き合ってみて初めてあるがままが見えるようになります。

 

AZUさんに鏡になってもらいに来ています、とおっしゃってくださる方もいます。曇りをなるべくよく祓ってもらえるように神から離れずにいたいと思います。

 

最後に、ただひとつの神しかないと言いながら火の神を拝むのかと思われるかもしれませんので一言。

 

ただひとつの神がわかると、すべての背後にある神がわかります。ひとつしかないというのはすべてであるということなのです。すべての人、すべての存在の背後に神が在ります。すべてはただひとつの神の心の中に在ります。

 

AZU拝